骨を拾う
カイシャがある社員を見捨てたとき、日本ではあからさまな首切りはやりにくい。
閑職に飛ばして最低限の生活は営めるように配慮することが多いです(大企業では)。
「骨を拾ってやる」 という言い方をすることがあります。
すでに職業人生という意味では死んでいるけども、生活だけは見てやる。ということです。
大概は職場で送別会が持たれ、新しい部署での活躍だなんだと、歯の浮くような言葉をかけて、ごく表面的にはその人の体面が保たれたような芝居をします。 芝居をするのです。 「大人の対応」 の究極です。 飛ばされた社員はジワジワとカイシャから距離を置かれ、元気をなくし、忘れられ、去っていく時には誰にも覚えられていません。
「誠実」であれば報われる。という幻想を抱いている人がいます。それは正しくありません。
「仕事ができる社員は報われる」という命題すら、完全に間違っています。
カイシャというのはオーナーのもので、利益を出すための組織です。 社員というのはオーナーに仕えて労働を売っている人にすぎません。 カイシャの業務で、「報われる」 などということが、あるわけがないのです。
会社員は、どんなに素晴らしい能力や人格を持っていても、製造設備の付属品か、オフィスにあるコピー機となんら変わらない、利益製造マシンの部品です。 オーナーにとっては、コピー機に 「自己実現」だ、「公平性」だといわれても、困るだけです。 カイシャが社員に人間的な扱いをするのは、そうしなければ人間というリソースは継続的に働いてくれないからです。 それ以外の理由はありません。
利益がでなければ、廃棄される運命です(これは自営でも変わりありませんよね。顧客に見捨てられたら一円にもならないわけですから)。 素晴らしい能力も、人格も、捨てられます。
だから会社を辞めよう。 と言っているのはありません。
現実を見る必要があると言いたいのです。
自分が納得できるか否か。 それだけです。
私は、自分の仕事に価値がないのにもかかわらす、お情けで最低限の食費だけをもらい受けるような生活には耐えられない。 他人の哀れみの視線は自分をスポイルさせてしまいます。 哀れみを受けるぐらいなら攻撃されたほうがいい。
でも、人によります。 組織にぶら下がってメシが食えていればそれでいいんだ。 という人は、それでいいんです。 どっちがいいも悪いもありません。
どんな価値観の人にも、法に触れない限り、それを全うする権利があります。
きらいな価値観を攻撃する権利もまた、法に触れない限り、ありますが。