ゴールは複数持つべき、更新すべき

 
「月商○○万円」とか、「△△大学合格」というのは、「評価基準」とか「目標」と言うべきものであって、私たちの言うところの「ゴール」ではありません。

「ゴール」は、自分自身が満足できる将来の自分です。人になんと言われようと関係ありません(合法的であれば)。「ゴール」は私たちが成長するためのツールであり、それを達成したからエライのでもなければ、できなかったからダメなのでもありません。(しかし、ゴールは達成してしまいますが)

人が見るもの、聞くもの、感じるものは、全て自分のゴールにとって必要な情報だから、見えて、聞こえて、感じられるのです。

物理的な自分の体を維持したいというゴールがあるから、おなかが空いたら自然と食べ物に目が行きます。満腹の時には目の前に食べ物があっても目に入りません。

子供が欲しいと思っている人は、TVを見ていても、外出していても、赤ちゃんや幼児のことを無意識に探しています。「今日はかわいい赤ちゃんを沢山見たなー。」と思っているかもしれませんが、子供が欲しいというゴールが赤ちゃんを探し求め、発見させているのです。その人が見ようと見まいと、赤ちゃんは同じ数だけいます。

たとえば社会人であるあなたが、「政治家になりたい」というゴールを持っていたとしたら、選挙の日程や、政党のマニフェスト、政治経済に関して社会人でも学べる大学機関に自然に目が行くかもしれません。

音楽家になりたい。というゴールがあれば、音楽関係の情報に、株式のトレーダーになりたいと思えば株式の情報に、自然と注意が向き、その結果、その方面の情報に詳しくなります。

政治家になりたい。というゴールを持っている人と、昨日と同じ仕事を続けたい。というゴールを持っている人とでは、見えている世界が違います。それは、住んでいる世界が違うということです。

人はゴールがあるから、認識を持てるのです。仮に、ゴールを全て達成してしまって世界になんの興味も失ってしまったら、人は何も見えず、聞こえず、何も感じられなくなってしまいます。そう、死んでしまった人と同じです。ゴールが無くなると生命体として体を維持する必要がなくなり、人体はその役目を終え、臓器はその機能を失い、単なる物質に向かって有機的なつながりを手放していくことになります。

ゴールを持つということは、人間を続けるということです。定年退職をして目的を失っていたある壮年の男性が、幸運にもある社会貢献活動に自分の居場所を見つけたときに言っていました。「ああ、新しい目的ができた。これで当分生きていられる。」

この言葉の意味は20代の若者にはわかりにくいかもしれません。ある程度の年齢を経ると、ゴールがなければ極めて短時間に自分が衰えていくことがリアルに感じられるのです。本質的には壮年も老年も若者も同じことですが。

大成功を収めたり栄光の絶頂にいた人がその職業から引退したとたん目標を失ない、人生の迷走を始めるのはよくある話です。自殺してしまった有名人が何人も思い浮かびます。(書きませんが) 

彼らはゴールの更新ができなかったのです。過去の栄光に引きずられて、自分が燃えることができる次のゴールを見つけることができなかったのです。

かつてプロ野球の広島カープの助っ人外国人として活躍したゲイル・ホプキンスという強打者がいました。彼は現役時代から引退後は医者になりたいという希望をもって勉強を続け、引退後に大学に入り直して本当に医者になってしまいました。今も外科医として活動しています。それだけでなく、聖書学も専門とし、地元の大学で教鞭を取っているそうです。

彼はいくつものゴールを平行して持っていました。それらを希望に燃えて学んでいたに違いありません。日本人は、一つのことを極めるために他のことを犠牲にすることを美談としてとらえがちですが、それは正しいやり方とは思えません。多方面にリソースを配分し、アンテナを伸ばすことで相乗効果が生まれ、独創的で価値のある機能が果たせると思うのです。

人に称賛される成果をたくさん上げるべきだと、いうことではありません。自分が燃えて学べることを複数持つこと自体が大事なのです。私はプロ野球選手をしながら本気で医学や聖書学を学んでいたホプキンスの、その精神に心が動かされるし、見習いたいと思います。

Fotolia_91197570_XS

コメントを残す

このページの先頭へ