何を信じるのか
信じることは力になります。その対象がなんであろうと、深く信じることで雑音が消え、心のエネルギーはピンポイントに集中し、巨大な力を生みます。立派な成果に結び付いている例もたくさんあります。宗教の果たしている機能の一つはこれであろうと思います。
深く信心している人にチャチャを入れるのが憚られるように、対象がなんであれ、それを信じて自分の存在を賭けている人は、存在自体に説得力があります。
子供を守ることに命を懸けている女性に対して、緊張感のない軽口をかける気にはならないし、カイシャと従業員を守ることに命を懸けているビジネスマンは議論においても絶対に強いです。
信念は人を強くも、賢くもします。
しかし、それは諸刃の剣でもあります。
『他者』を信じて強くなり、そこに自我の根拠を持ってしまうと、その『他者』を簡単には否定できなくなります。もしも自分が思ってもみなかった『他者』の一面が表に現れて、それを自分が許容できなければどうなるでしょう。自分を曲げて『他者』への追従を続けるか、もしくは今までの自分を否定して、自分を再構築するという作業が必要になります。
自分を否定して再構築するのは正しいやり方ですし、実際『変節』や一時的な信用失墜はなんら恥ずかしいことではありません。でもこれはシンドいんです。つい、自分を曲げるという安易なやりに流れてしまいます。ほとんどの人は。
自分を曲げた活動を続けると、第三者への悪影響を(潜在意識では疑問を持ちつつ)流し続けることになってしまう。社会にとってもマイナスです。
また、『他者』を信じることでパワーと持つと、『他者』を超えることができなくなるという面もあります。『他者』の権威をよりどころとして成長した人は、その『他者』の権威を否定することは、自分を否定するに等しいことだとわかっています。表面上反発したとしても『他者』を超えることはできません。成長の上限がきまってしまうのです。
信じることはパワーであり、素晴らしいツールです。しかし特定の対象を権威とすることには危険つきまとう。自分にとっても、回りの人たちにとっても。
信じる利益を享受しつつ、そのリスクを理解し陥穽に陥らないように配慮する。それが責任ある大人の立場であろうと思います。
私がこの週末受講しているスクールは、そのありかたを具体的に示してくれています。