幸運にも不運にも動じない理由

 
そういえば気功を学んでから、「取り越し苦労」をすることが全くなくなりました。それだけでもエネルギーのロスが少なくなってかなり助かっています。

予想していないことが起こっても、自分がどんなバカな失敗をしても、精神的に動揺することはほとんどありません。達観してしまった人のようです(私は一向に達観したとは思っていませんが)他人が私をみれば、「落ち着いている」「堂々としている」ということになるんでしょう。あるいは、ただニブいだけだと思われているかもしれませんが。

私には悪いことが起きない。と信じているわけではありません。他の人と同じよう幸運や不運が舞い込んでいます。不運を幸運とこじつけて、やせ我慢をしてるわけでもありません。

なぜ動じなくなったかと言えば、私たちが生活している「物理空間」を相対的に感じるようになったからです。「物理空間」の重要度が下がった分、どこの重要度がアップしたかと言えば、「情報空間」です。

こう言うと宗教がかったように聞こえますが、違いますよ。

人は全て「物理空間」と「情報空間」の両方に生きているのですが、意識しているのは「物理空間」だけです。気功を学ぶと、必然的に物理も、情報も、両方を意識することになります。

情報的な存在は、物理的存在に優先します。情報が第一であり、根本です。物理は第二であり、情報の写像にすぎません。

あなたが湖を覗き込んでいるとしたら、覗き込んでいるあなた自身の方が「情報」であり根本です。情報は、カッチリと一義的に定まっている存在です。水面に映っている像の方が「物理」です。水面がゆれると像がぶれるように、物理的存在は不安定に揺らぎます。(反対だと思っていませんか?)

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私たちの体も、私たちが見聞きする物事も物理にすぎず、情報の写像でしかありません。とても不安定に揺れ動くものなのです。

「Aさんがこういった」「○○の本にはこう書いてある」などという(たかが)物理的な情報は、本当のところどうなのか、分かったものではありません。それを根拠にして判断をすると大概間違ってしまいます。物理だけを見ていては、片手落ちなのです。

だから、私は物理を信用し(すぎ)ないのです。

「これはヤバいかも」
「彼を怒らせたらただでは済まない」
「これだけ準備したのだから成功するはずだ」
「この仕事は絶対に期限内に終わらない」

そう感じたとしても、ヤバい状況が他のイベントにかき消されて何事もなく終わったり、十分に準備した仕事が状況の変化で大失敗したり・・・ 良い予想も悪い予想も、頻繁に裏切られるでしょう?私はバカバカしいので将来の予測はしないクセがつきました。何が起こっても(あまり)動じることがありません。物理空間での出来事よりも、その物理現象を生んだ基になった情報的存在の方に興味があるんです。

物理空間しか見ていない人は、物事の因果も物理空間の中にしか存在しないと思い込んでしまいます。それは明らかな間違いです。因果は物理空間と情報空間の両方にまたがって存在しています。物理空間で善行を積み重ねても報われる保証はないのです。

因果関係の把握が不正確、若しくは不十分だと、ゴールへの正しいアプローチができません。情報空間が見える高い視点の人から低い人を見ると、その行動や考え方は全くチグハグです。情報空間が見えない人は、意固地になって物理空間だけの因果に固執する傾向があります。ドツボですね。

気功で情報空間に手を突っ込めるようになってはじめて、望んだ効果に近づくことができるのです。

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