スピリチュアリズム告白
先週末にスピリチュアリズムについてのスクールを受けました。そこでわかったのは、私もバリバリのスピだったということです。今はマシだと信じたい。
以前ハマったスピは、姓名判断ですね。名前の字画に吉凶があるというアレです。30代前半だったかな?いやお恥ずかしい(^^;)。凝ってましたねー。たぶん5、6年は気にしてました。許してください。
「スピにハマると心身を急激にむしばむ」という今回の教えも、経験からよくわかります。姓名判断なんて可愛い娯楽に過ぎないよ、なんてバカにはできないですよ。 生活に悪影響が、簡単にでてしまいます。
そもそも、自分に付けられた名前なんて本人の不可抗力の典型ですから、そんなものに人生が左右されるという確信自体が、エフィカシー(自己能力の自己評価)を高く保つべき原則と対極にある考えです。言語道断ですよね。
私の名前にはスペシャルな凶数があったので、本気で改名を考えていました。改名にはビジネスネームのように事実上通用させる通称名としてのやり方と、戸籍まで変えてしまう徹底したものがあるんですが、戸籍まで変えるのは裁判所の判断を経ないといけないので、結構ハードル高いです。通称名が浸透しすぎちゃったとか、あまりにも奇天烈な名前で裁判官が「これはかわいそうだから変えてあげよう」と思ったとか、理由が必要になります。(自分の好みで改名したいと役所に訴えて、粘り倒してしまった作家の妹尾河童さんのケースはごく例外です)
当時はほんとに改名したくて、かなり長い時間をその考えに費やしていました。なんで自分の名前を変えるのに役所の許しが必要なのかと腹を立てたり。今思えばその時間で本の一冊でも読めよ。と思うんですがね。そもそも「戸籍」などというお役所の管理台帳に過ぎないものに記載するか否かで人生に影響があるというのは、どう考えてもおかしい、わけがわからない。バカでしょ、自分。
そんな客観性を吹き飛ばしてしまうのがスピの怖さです。
姓名占いみたいないい加減なものですら、その中にハマっているときは矛盾のない完全な系として存在しています。そこから抜け出そうとすると、自分には力の及ばない霊的なレベルで不利益を被るような気がしてしまいます。内容はバカでも(いやバカは私ですが)、バカにできないのです。
スピリチュアリズムとは、完全かつ普遍的なものが霊の次元に存在するという妄信です。
姓名の画数に普遍的で霊的なパワーが宿っているなんて、ニセモノに決まっています。でも、人は普遍的なものに惹かれてしまうのです。
毎朝のテレビで生まれ月ごとにその日の吉凶をお知らせしてくれますが、あれもスピ。テレビで有名になった芸能人や文化人(?)が、なんでもできるように錯覚されてつい政治家になってしまうのもスピ。生まれた月日で人の性格や能力をパターン分けするだけのサービスを、企業の人事部に売っている人と私は会ったことがあります。売るほうも買うほうも完全なスピ。(買う企業があることが驚きですが)
もっと巨大なスピはいくらでもあるけども、書きたくないですね。あまりにも大きすぎて書くのが怖い。
スピリチュアリズムはうまく機能させれば心を癒してくれます。能力を高めるきっかけにもなります。しかし、深くハマると極めて危険です。プラスの効能は長くは続きません。あっというまに上限に達します。
上限を迎えた後に地獄が待っています。活動が効果を奏さず、空回りを始めます。そこから抜け出ることも容易にはできません。そのつらさから同じアリジゴクにハマる仲間を物色し始めます。社会から認められなくなると孤立を深めていき、さらに先鋭化してしまいます。明確に、病んだ状態になってしまいます。ドラッグとほとんど一緒ですね。
気を付けましょうね。誰にもスピ性はあるので、心静かに自分のスピ性を探ってみるのはいいことだと思いますよ。