「平等」という管理ツール

 
サラリーマンの最大の関心事は人事と評価です。自分と同格だと思っていた同僚が、自分より高い評価を受けたり、一円でも給与が高くなると強く反発します。サラリーマンにとってカイシャからの給与がほぼ唯一の生活の糧ですから、カイシャからの待遇に生存本能が反応します。

『なぜあいつが自分より評価が高いのか』
『なぜあいつが自分よりいい給料をもらうのか』
という反発もありますし、自分より給与の低い社員に対してだって、
『なぜ殆ど仕事ができないやつとオレの給料がこれだけしか違わないのか?』
という不満を持ちます(これは反発とまではいかないでしょうか)。

サラリーマンは、反発しているか、それとも達観して仕事をしてるふりだけしているのを足して80%で、頑張って働いているのが20%。だいたいそんなものでしょう。まあ、仕事をしているふりだけしていても、それほど支障を生じないのがカイシャです。

サラリーマンがなぜカイシャに不満を持つかといえば、自分が不当に扱われたと感じるからです。さすがにハナから怠けようと思っている人間は採用されていません。採用後の扱いが不満なんです。

サラリーマンはカイシャに平等を求めています。「自分は平等に扱われなかった」と思うから、不満を持ちます。求める平等の程度は人によりますが、求める程度が大きい人ほど、アカン社員です。

① 仕事ができようとできまいと、平等に待遇されることを期待する人。
② 仕事をする能力を得る機会は(研修や仕事)平等に与えられることを期待する人。
③ 仕事のアウトプットについては平等に評価されることを期待する人。

勘違いしてる人からの順番です。①は論外ですがたまにいますね。②は普通に期待されていますしカイシャもそうなるように気にはしています。③は社員は当然のように期待しますし、カイシャとしても(嘘でも)そうなってますよ。とアピールします。

しかし、実際には①から③まで、期待されるような平等は全く実現されません。平等というもの自体が幻想にすぎないのです。

人は全員ちがったバックグラウンドを持ってるし、違った世界観を持っています。仕事がどうなれば成功なのかは人によって感じ方が違うし、成功に至るルートもその人に特有の経路によるし、評価の基準も千差万別です(客観性はあるようでありません)。

機会の平等も、評価の平等も理屈としてあり得ないのです。私たちは(もちろん私も)平等を願うけども、平等とは永遠に実現されない、切ないアイディアとして存在しているのであって、世界に平等は全く存在しません。

カイシャが平等を標榜するのは、それが人を引き付けることを知っているから、管理の道具として採用しているにすぎません。泥をかぶって苦労した人の評価を上げたり、仕事の成果と給与をリンクさせたように見せる制度を作るのは、平等の演出にすぎません。

カイシャの利益は全く平等ではない場所から生まれているし、稼いでいる人たちのコミュニティは『平等』に扱われている社員とは全く別次元に存在しています。稼いでいる人は、『平等』なんて信じていません。勝手に勉強して勝手に活動しているのです。カイシャの中であろうと。

ありもしない『平等』に期待を寄せて管理されたままでいると、『平等』に傷つけられ、消耗し、そのまま生命時間が終わりの時を迎えます。

『平等』から卒業することが、自立の第一歩です。

fair

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